さんぽ絵図
内藤新宿とは
甲州街道は江戸時代に整備された五街道のひとつで、5番目に完成しました。江戸日本橋から中山道の下諏訪宿までを結ぶ53里2町余り(約210km)の街道です。当初は江戸城と甲府城を結ぶ軍事目的を主としていましたが、江戸城が危機に瀕した際の避難路だったという説もあります。
江戸中・後期になると旅人や文化人が行き交っただけでなく、甲州・信州から江戸へ農産物を運ぶ流通の道として重要性が増し、江戸の生活を支える動脈として発展しました。
甲州街道の起点となる日本橋と最初の宿場町である高井戸宿まで距離が遠かったことから、その間に新しい宿場として設けられたのが「内藤新宿」です。
1697年、浅草の名主・高松喜兵衛(後の喜六)が同志の4人とともに内藤家下屋敷の一部(現在の新宿御苑北側)への宿場開設を幕府へ願い出て、1699年に開設されました。村が伝馬宿になるのではなく、宿場を設置するために武家地を上地し新たに開発したという他の宿場にはない性格を持っていました。
信濃高遠藩の藩主だった内藤氏が幕府に返上した屋敷地に宿場が置かれたこと、また甲州街道に新しく設けられた宿という意味から「内藤新宿」と呼ばれるようになり、現在の新宿という地名の由来ともなりました。新宿御苑付近には内藤町という町名があり、今も内藤氏の名前が残っています。
1718年、内藤新宿は宿場廃止の決定を受けます。廃止の原因として「甲州街道の利用者が少ないから」「享保の改革の一環で風紀取り締まりの対象となったから」などさまざまな説があります。その後、たびたびの嘆願のうえで、廃止から54年後の1772年に宿場再興が認められました。
内藤新宿の宿場町は、四谷大木戸(現在の四谷四丁目交差点)の西側にある新宿一丁目交差点付近から追分(現在の新宿三丁目交差点)の周辺までの間に形成されていました。
その光景は浮世絵師・歌川広重が名所江戸百景の1枚『四ツ谷内藤新宿』に描いています。
内藤新宿は甲州街道・青梅街道の分岐点であったことから、多くの牛馬が行き交い、物流の拠点として活況を呈していた様子が見て取れます。
その土地ならではの御宿場印を集めて、
甲州街道の魅力を再発見してみましょう!
1枚300円
1冊3,000円
内藤新宿の訪宿記念にぜひ!
新宿観光案内所で販売中
さんぽ絵図
内藤新宿とは